視点
久しぶりに常体ぶろぐ
「私たぶん○○さん(君)から嫌われてると思うから」
このワードを自分が頻繁に使っていることを、後輩から指摘され初めて自覚した。
物心ついた頃から、周りの人はきっと私のことが嫌いだろうから と考える癖があったように思い返される。原因は恐らく、幼少期から思春期にかけて、対人関係に常に悩んでいたことだ。
「○○が昨日悪口言ってたよ!」だとかいう悪意のない(あると思うが子どものすることということで目を瞑る)報告に具合を悪くしていたこと。ブス(分かる)だとかデブ(解せない)だとか容姿の醜さを嘲笑されていたこと。無視をされたり家庭が貧しいことを馬鹿にされたりしたこと、無実の事案で悪者に仕立て上げられ集団で迫られ怯えたこと。
なんだか情景がフラッシュバックして暗澹たる気持ちになってきた、が、続ける。
昔の自分はとても小心者で周りの顔色ばかり伺って、自分の意見も何も持っていなかったから、言い方は悪いがいじめやすかったんだろうなと思う。もちろん当時の私もそう考えていて、自分は基本的に人から嫌われる人間なんだと諦念していた。
その思考が、人間性が構築される時期にじっとりと染み付いてしまった為に、大人になった今でもなお、卑屈な姿勢は変わっていないのだろう。
私にとって、「嫌われているだろうから」という言葉は自己防衛なのだ。傷つきたくなくて必死なのだ。予めそうやって予防線(というと語弊があるが)を張っておくことで、本当に嫌われていると知らされたとき、精神的に抱えるダメージがきっと最小限で済む。だからその姿勢を心がけておくようにするし、口にも出してしまう。そして自分から相手に関わろうとはしないのだ。
閑話休題。
後輩の指摘には続きがあった。「れぬさん(私)が声掛けたら、みんな会いたがると思いますよ」「私は嫌な人だと思ったこと一度もないです」
なんだか申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが入り交じって、それを聞いてほろりと涙を流してしまった。こんなことで泣かないでくださいよと笑われてしまったが、ひねくれた心が少しだけ暖まったのを感じた。私が勝手に嫌われてると自嘲することは、思い上がりも甚だしい。自己防衛というより、只の自意識過剰ではないか。
それに何より、そんなふうに言葉をかけてくれる人が近くにいてくれることに感謝し、噛み締めて明るく生きる方が楽しいではないだろうか。
歪んだ達観はなかなか無くなるものではないであろうが、少しずつ変わっていきたい。そう思えたエピソード
であった。